おもちゃ箱な平生草子のブログ

好きなイロ色を書いております

 

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岩木山の神さまのギフト(3)

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続いてしまっております〜

前回までは、、、、

鬼神社は神紋に弘前藩と同じまんじ紋の使用が許されていた

まんじ紋を紐解く

紋に繋がりそうな雰囲気があって

雷紋は饕餮文が由来とされる説もありその饕餮には

なんとなーく

バアル=八=岩木山の神さまが見えなくない気もして

(しかもそもそも饕餮は長江流域のだったとか龍の子とも)

更にはインドでは昔から

どことなーく “山” の形に見えるオーンという

始まりと終わりを意味する聖音と一緒にまんじ紋はデザインされる事が多いらしく

といった辺りから

当ブログ的にまんじ紋に纏わる一本の線が繋がって

一方

“鬼沢は昔ながらの村の形態を遺している村” として天皇杯を受賞していた

という具合でしたけども

何らかの理由で鬼神社の神紋はまんじ紋のまま遺された

その “何らかの理由” なのですけども

もしや、

もしかして、

鬼沢はそのままの形で遺されていたから?

いや、

津軽地方に残った安倍氏の末裔は安東氏と名乗っていたのですけども

安東氏の頃というのは身内同士で争いに発展してしまう場合が多かったようで

その名残を今に伝えるのが去年もお伝えした深浦の巨木 、、、、

の周りに置かれた色々な石碑なのではと

当該記事はコチラ ↓

omochasoushi.hateblo.jp

特に甕杉の方はその色合いが濃いのではないかと

当ブログでは今まで特に詳しくは触れてきてませんが

甕杉の後方に石碑が隙間なくビッシリと並んでいるのが少々写り込んでおります

それで前回の岩木山の神さま連投記事でも書きましたように

津軽での安東氏の勢力を盤石にする為に

岩木山信仰を悪い方に利用した一派がもしあったとしたら

津軽為信は自身の出自や津軽の地理を隠す為だけではなく

安倍氏の末裔だからこそ

そういう目的で作られた物は一掃し

だから鬼沢はそのまま遺された

そのままだったから格も上げてもらえた、、、、

のかな?

という風にも考えられるのかなと

とにもかくにも、

雷の方に関しましては

前述の色々な事を昔の方々はまだご存知だったから

だから、

春日神社が鬼神社境内の中央付近に置かれたのかもしれません

それで改めて春日神社の由来看板を眺めて見ていたらば ↓

後半がソレっぽさのオンパレードといいますか ↑

 

“ 〜鬼沢地区第二次農業改善事業が行われ

之れに伴い鶏川改修の為め神社境内が川に埋没せられ

昭和四十七年

氏人達の計ひに依り

此の地を最良土地と撰び移転せり

同年七月

新築落成至し〜 ”

 

やはり、

選りに選ったのでしょう!←(笑)

ところで、

前回登場させて頂きました

農林水産祭参加表彰行事の

“むらづくり” 部門 平成26年度の53回大会 天皇杯受賞

での公式的受賞理由の内の一つに

義民・藤田民次郎の功績、鬼伝説を主とした歴史の継承に取り組んでいる

という事も挙げられておりまして、

鬼伝説というのは既出の

鬼が水路を引いてくれて現在の農業の礎とも言え神社に祀った

というお話で

義民・藤田民次郎の功績のお話は当ブログ的に初登場となりますので

少々ご紹介させて頂きます ↓

 

時は江戸時代後期

その頃津軽では度々、大雨でだったり岩木川で洪水が起こっていて

その上で1813年は天候不順に見舞われ

兼ねてより役人の不正もあり

同年秋には津軽地方の村々はいよいよ困窮を極めていた

鬼沢村の藤田民次郎は税の軽減と役人の不正摘発を弘前藩に訴えるべく決心する

その影響で自分の妻子に害が及ばないように離縁もし

この計画を遂行する前に役人にバレてはならないので

周りには「絶対に秘密だ」と言って硬く口止めも頼んだ

いざ、弘前城へ向けて出発 、、、、

するのだが何故か先へ進む程に一人二人と人々が集まってくる

どうやら「絶対に秘密だが民次郎がお城へ直訴しに行く」と

広く津軽一円の村々に知れ渡ってしまっていたらしい

かくしてその数はどんどん、どんどんと増えて

城へ到着する頃には大変な数に膨れ上がり

一行はそのまま弘前城に押し寄せる事となった

その結果、

の救護策を引き出す事に無事成功!

しかしこの騒動の責任を問われてしまい

その時民次郎は自ら進み出て

「最初に言い出したのは自分だから自分にだけ責任があるのであって

他の民衆は自分に付いて来ただけだから悪くはない」

といい民次郎だけがお咎めを受ける形で 22才の若さで死刑となり

この世を去った

 

という感じですが、

このお話には後日談がありまして

とにかく、

1813年頃は津軽の村々は苦しかったのでしょう

この民次郎の功績をとても感謝して下さったようで

民次郎の命日の際に執り行われる法要には

今現在でも鬼沢地区のみならず津軽半島の様々な所から

沢山の方々が足を運んで下さるそうです

その縁もあって

鬼神社の宵宮には昔は弘前で一二を争う具合の露店が並び沢山の人で賑わったとか

今でもその片鱗はやはり見てとれるのですけども

さて、

このお話は

どちら様かの宗教でも似た感じの内容のお話があったように思い出されるような

ほら、

人々の為に自らを犠牲になさって磔の刑でお亡くなりになったという

そのお方はその後にどうなったか、、、、

鬼沢で民次郎のような人が現れたのは

やはり岩木山と関わりの深い鬼沢だったから

でしょうか

そういえば、

よく考えてみれば

旧約聖書の原文はヘブライ語で書かれてますが

ヘブライ語

“雷” という文字は “神の声” という意味

から作られていたような、、、、

 

 

続きます 読んで下さった方に感謝を込めて。

 

 

向かって左側が民次郎さんのお墓 ↑

民次郎さんの心意気は今にも伝わっておりますよー!

右側のお墓がとても立派だったので一緒に写してしまいました